紅茶片手に読書している。そして音楽を聴きながら

本の感想、コンサート記録など書いています。

中日新聞 人生のページから山田史生先生のこと

2016年2月9日、16日に中日新聞人生のページに掲載された山田史生先生の
文章を読んだ。
いわゆる読書のすすめなのだが、とても優しく美しい文章に胸をうたれた。


≪人間の「生」は根深いところまで「言葉」で貫かれている。≫
というのだ。

≪本を読む能力のかなりの部分は、分からないことを「分からない」まま抱えながら読み進めてゆく能力なんだ。それが「分からない出来事を分からないまま抱えこみながら生きてゆくのが人生だ」という事実と、どこかしら似通っている。≫

難解だなあと思いながら読む文章に、不思議なまで惹かれてしまうことがある。
それはたとえば、中学の頃に読んだ論語であったり、
高校の頃に読んだ数々の世界文学であり、
大人になってから読んだ、さまざまな本である。
いつ読んでも、「分からない」と思うことがある。
分かったと思っても、やはり分からなくなったりもする。
それでも「分からない」と思いながら読み進めてゆくなかで
胸を貫かれるほどの言葉に出会うことがある。

以前読んだ時にはわからなかったものが
次に読んだ時に驚くほどの衝撃を受ける言葉になったりもする。

簡単になんて、分からなくていい。
分からないまま、考え続ける。
一つ答えが出れば、次の「分からない」が出てくる。
分からないから、また考える。
それこそが、本を読むことなのかもしれない。

さらに。

≪人間の本性は「欠けている」ということにある。だから人間は、欠けているものを絶えず充たそうとする≫
と、氏は続ける。

そうなのか。とふと思う。
本性がもう「欠けている」のだと思ったら、なんだか少し
肩の力が抜けたような気がした。

本当に欠けている。わからない。
欠けたままで、わからないままで、
それでも歩いてゆくのが、生きることなのかもしれない。
欠けているから、求める。
求めることが、また前に進む力になる。

前に進めたと思うのに、
充たされるのは、ほんの一瞬。
つぎにはまた、分からないことと、欠けている自分に気が付く。

若いころには、欠けている自分がもどかしく
あがくように充たされようとした。
時を重ねて、重ねてきたけれども
それでもやっぱり自分は
欠けているままで
知らないことばかりだ。

だから、
また、それを満たそうと、
分からないまま、欠けたまま、道を進んでゆくしかないのかもしれない。

今回、山田氏の文章の全文がどこかに載っていないか捜したのですが
どこにもなかったので、リンク等できませんでした。
もし、気が向かれましたら、
中日新聞朝刊、2017年2月9日15面、16日13面を
図書館等でご覧いただければと思います。
(ちなみに、我が家は名古屋版です。もしかして地方によって
 違うといけないので)