紅茶片手に読書している。そして音楽を聴きながら

本の感想、コンサート記録など書いています。

言葉にならない言葉を捜して

今週のお題「私がブログを書く理由」

今週のお題は難しいな。スルーしてしまおうかなと
実は思っていたのですが、少し気が変わりました。

今、ドストエフスキーの「悪霊」を読んでいます。
時間がなかなか作れないのと、
凄いボリュームなので。本当に少しづつ。
心が理解できるまで何度も読んで
ゆっくりと進む読書をしています。

今、中盤の盛り上がり
主人公が己の過去を告白するシーンを読み終えたところです。

あまりにも胸に言葉が次々と突き刺さり
そこに描かれる大きな「問」に呆然としております。

あまりの素晴らしさに、続きを読むことがまたできなくなり
立ち止まり、心の整理をしています。


ドストエフスキーの小説は
「読んでもよくわからない」と言われることが、しばしばあります。
「でも、ハマる人はハマるんだよね」と。

自分は、ハマる人のほうなのだと思います。
ハマる、というのとは、少し違うのかもしれません。
このような文学を、生きる上で必要としてしまうのです。

ドストエフスキーを読まれたことのない方には
ちんぷんかんぷんのことを言っていますね。


文章を書こうとして、
こうしてブログを書くようになって、
どうしようもなく理解したことがあります。

それは、本当に書きたい事、伝えたいことは
文章では、言葉では
そのままの形では書くことができない。

ということです。

直接その感情(感覚?)に触れる言葉は、
どんなに探しても見つからない。
言葉にした途端に、はみ出てしまう感情や感覚
ずれてしまうものが見えてしまうから。

例えば。

本当に好きで好きで好きで好きでたまらない人に
想いを伝えようとしたときに
その感情は、ほんとに「言葉」だけで伝わるのか?と思うのです。
だって、その感情は「好き」なんて言葉だけで表されるほど
ありふれたものじゃない。
そんな単純なものではない。
もっとたくさんの
もっといろいろな色を持ち
もっと、もっと、心の底がえぐられて
天のかなたまで届くような想いなのに。
この想いに、どの言葉をあてはめたって
やっぱり全部違うのに。

どれほど言葉に気持ちを込めても
それ以上に、あふれてしまう「何か」がある。


でも、言葉にしない感情は、
ないようなもの。
こんなにも、ある、ものが
言葉にしないだけで、ない、と同じになってしまうなんて。

それなのに、
気持ちがあまりにも強くて
胸にあふれかえっているときは
なおさら「言葉」は出てこなくなってしまう。

すべての言葉が違うことが
あまりにも、わかるから。


ドストエフスキーの小説を読んでいると
気づくことがあります。

ドストエフスキー
この長大な文章、その中で、
言葉では書き表すことのできない
感情や、雰囲気、
もっとずっと深いところにある「何か」

それを、見事に描いているのです。

昔、国語の授業で「文の余白を読め」「行間を読め」と言われたことがあります。
文章とは、文章そのものを読むだけではなく
文章全体から成り立つところから
文章の間にある、決して文字では直接触れられない
とても大切な「   」を
読むことができるのだと、思うのです。

それは、文を書いてみて初めて切実にわかるようになったことであり
この、言葉にならない言葉を
文章にすること

それこそが、「伝える」ということなのかもしれないと思うのです。

でも、それはとても難しくて。
じたばたじたばたと、書いています。

このじたばたする過程こそが
「私がブログを書く理由」
なのかな?と思うのです。