自分なくし
ここ最近、「価値観」というものに、悩まされてきました。
この歳になってくると、当たり前なのだけれど、今まで生きてきた生活から生まれた「自分なりの価値観」というものが、ガッツリあることに気がつかされます。
それは、周りの同じくらいの歳の人たちも、多分同じなのだろうと思うのです。
価値観。といっても、大なり小なりあります。
たとえば、ブロッコリーを茹でる時間はなるべく短くして、硬めをカリカリ食べるのが好き派なのか、ゆっくり茹でて、柔らかくふにゃふにゃになったのを食べるのが好き派なのか。
一度使ったタオルは必ず洗う派なのか
何度も使っても大丈夫派なのか
朝食はヨーグルトとコーヒー派なのか
朝からガッツリ肉派なのか
ご飯とお味噌汁派なのか
待ち合わせの時間より、5分前に到着するのが当たり前派なのか
少し遅れるくらいがちょうどいい派なのか
時間は守った方がいいけれど、時と場合によっては他を優先させても良いよね派なのか
友達と仕事なら、仕事優先派なのか
やっぱり友情大事にするべきでしょ派なのか
こんな価値観の違いが、
とにかく。いろいろあるのです。
特に、自分の「好き」や「こだわり」のある部分の価値観は、なかなかに、いろいろな感情が混じりあって、人生の歴史もあって、
簡単には変えられなかったりします。
違う価値観の人に腹が立ったり、イライラしたりすることもあります。
そんな中で、自分の価値観と、自分とは違う価値観の相違の中で、
「じゃあどうする?」という問題や
自分の内側でも、
たとえば毎朝ご飯だったけど、パンも良いよね?とか
ブロッコリー、ドロドロに茹でるのも、もしかしたら悪くないかもねとか、
変化してくる部分とか、
そんないろいろの中で、最近ちょっと混乱状態にあったのです。
そんな中でふと出会ったのが、この言葉。
「自分なくし」
「自分さがし」はよく聞きますが、
「自分なくし」です(笑)
でました、みうらじゅんさんです。
家族が見ていたテレビをのぞいたら、たまたまみうらじゅんさんが若い学生さんに講義をされていて、そこで「自分さがし」の話しから、
「自分なくし」と、おっしゃっているのです。
何気に見たので、実は内容がわかっていないのですが。(すみません)
街の駐車場の看板で、「空あります」とか書いてあるとか、おっしゃっているのです。
「仏教の真髄を教えている」と(笑)
たしかに!
それどころか駐車場には「空ありません」なんて看板まであると。
それは、あるでしょう(笑)
でも、これ、仏教的に、確かに凄い(笑)
無い物が無いって、哲学的に難しい。
その話しの、続きで
「自分さがし」からの「自分なくし」
自分の価値観って、何なんだろう。
人の価値観と何が違うのだろう。
違う中で、どうやっていったらいいのだろう。
なーんて悩んでいた中に
「自分なくし」という単語の衝撃。
なるほど。
ブロッコリー茹でるのに、硬めも美味しいけれど、ドロドロになっても美味しいよね。
まぁ、好みは、ほんとは、あるんだけどね。
朝はご飯でも、パンでもいいよね。
目からウロコが落ちました。
でもね、やっぱり、危険はあると、みうらじゅんさんは、おっしゃってくれています。
ちゃんと、崖っぷちに行っても、帰ってくるんだよ。でも、崖っぷちには、とても綺麗な花が咲いているからと。
これは、聞いたことがあったので、
確かにと思いました。
「自分なくし」
崖っぷちに立つこともあるでしょう。
なんといっても、「自分なくし」の究極は「死」でしょうから。これは、私の勝手な解釈です。
「無」から生まれ「無」へと還る自分の存在の中で、「自分なくし」をいったいどこまでできるのでしょう。価値観や好みとは、ある意味自分を守る武器や防具でもあるのだと思いますし。
若い方が「自分さがし」をするなら、
いい歳したおばさんは「自分なくし」も
いいのかもしれません。
これ、本当は、とても難しそうです(笑)